ピックアップシェフ

田村 亮介 麻布長江 香福筳 何回食べても、またすぐに食べたくなる、 大好物のトンカツとチャーハン。

中華料理の定番・チャーハン。材料、手順の全てのバランスがうまく取れたときに、いちばんおいしく作れる。

働かないで遊び続けたいと考えていたのに、横浜中華街の店に放り込まれた。

僕は実家の家業である中華料理を継ごうと、この世界に入りましたが、情熱を持って始めたわけではなく、最初は「しょうがなく始めた」というのが本音です。将来の進路を決める高校生のとき、僕は音楽に夢中でした。地元の先輩がHIPHOPをやっているのを見て衝撃を受け、自分もやりたいとターンテーブルを買って、DJにはまっていたんです。ちょうどスチャダラパーやEAST END×YURIが登場したころです。高校時代の3年間は、スポーツや勉強よりも音楽活動に夢中なり、クラブに遊び行ったり、DJとしてパーティをやったり、という毎日。アメリカやHIPHOPカルチャーに憧れていたので、中国なんか一切興味なし(笑)。将来は音楽で身を立てたい、なんていう淡い夢も抱いていました。とりあえず大学に行って、音楽を続けようと思いましたが、それまでほとんど勉強してなかったので、すぐに断念。それに音楽でやっていけるかも、全くわからなかったので、「じゃあ料理でもやろうかな」ぐらいのゆるい動機で、調理師の学校に1年間通いました。そんな気持ちですから、学校に入っても中華料理の授業しか出ず、他の授業はほとんどサボっていました。働きたくないから入学したようなものなので、そろそろ同級生たちの就職が決まり出す時期になっても、全く就職活動をしないで、「どうしたらこのまま遊び続けられるか」ということばかり、毎日考えていました。

働かないで遊び続けたいと考えていたのに、横浜中華街の店に放り込まれた。

卒業間近の3月頃、父が千葉の知り合いの方のところに出かけたとき、車で迎えに来て欲しいという連絡があったんです。それで僕が迎えに行ったら、その知り合いの方は中華料理の業界では有名な人で、その場で有無を言わさず「卒業したら中華街の店で働くように」と言われました。僕の知らないところで父と決めていたようで、突然、実家を出され、横浜中華街の店へ住み込みで放り込まれたんです。僕もお手上げで、ついに腹を括りました。

店に行くのが嫌になって、置き手紙をして逃げ出し、そのまま海に行ったこともあった。

見習いで入ったその店は、広東料理を出す中規模クラスの店で、同期は僕より年下、僕を教える先輩は同い年。同い年の人に毎日指示されるのがちょっとイヤで、この人に絶対に負けたくないという思いが生まれました。それと、実家の店は四川料理をベースにした料理を出していたので、広東料理とは全く技法が違うし、料理の呼び方も全く違うんです。そんな基本的なことも知らずに店に入ったので、最初は「何だこれは!」と衝撃でした。その店では2年ぐらい働き、ひと通りのことはできるようになってきたところ、次に池袋の店を紹介され、そこで同じく2年ぐらい働いていたところ、親友のお姉さんに「『麻布長江』という店が、働く人を探しているんだけど、興味ある?」と聞かれました。ちょうどそのとき、『麻布長江』の長坂松夫さんを『料理の鉄人』で見たばかりだったので、すぐに「行ってみたい」とお願いして、面接に行きました。今でも忘れられないのは、面接で「醤油や砂糖が、どうやって作られているか知っているか?」と聞かれたことです。ちょっと面食らって、正直に「知りません」と答えると、「毎日使う調味料がどうやって作られるのか知らないのでは、仕事にならないよ。ここに来るまでに勉強しなさい」と言われ、面接からの帰り道、すぐに本を買ったことを覚えています。

店に行くのが嫌になって、置き手紙をして逃げ出し、そのまま海に行ったこともあった。

2000年の1月から晴れて『麻布長江』で働くことになりましたが、まぁ、ここからですね、僕の怒涛の日々が始まったのは。この4年間、どれだけ自分が適当にやってきたかを、思い知らされました。オーナーの長坂さんも料理長も、とにかく厳しい人で、朝の「おはようございます」から、1日の最後に「お疲れ様でした」というまで、台ふきの置き方ひとつから何から、ずーーっと怒られていました。長坂さんは「ここに来るのは仕事、勉強は家でやりなさい」という人で、宿題も出されましたし、睡眠時間を削ってずいぶん中国料理の歴史や、地域ごとの料理の特徴などを勉強しました。西麻布で働いていたので、周りにはクラブもあり、友達の誘いも多かったんですが、「3年ぐらい雲隠れするから」と頼み、一切、遊びませんでしたよ。最初の一年は本当に辛くて、もう耐えられない、と何度思ったことか。地下鉄で六本木の駅に着くと、吐き気がするほど追い込まれ、もう限界だと思って、師匠の家に「もう無理です」と置き手紙をして、そのまま逃亡し、海に行ったこともあります(笑)。本当にあのころは辛かった。けど、お二人に鍛えられたおかげで今の僕がある、とありがたく思い、今は心から感謝しています。

チャーハンは人生で最も多く作ってきた料理だけど、シンプルなぶん、難しい。

師匠の長坂さんは、当時全盛だったヌーヴェル・シノワーズで名を馳せた気鋭の料理人で、僕もその料理に憧れて、店に入りました。しかし、新しい中国料理を作りたいなら、古典中国料理を勉強しなさいと何度も言われました。というのも、ヌーヴェル・シノワーズはあくまでも伝統の料理を踏まえた上での温故知新である、それを知らずに勝手に新しい料理を作るのは、ただの創作料理だ、というのが持論でした。その考え方には僕も大きく影響されましたし、また、毎日のように「美味しいものを作って、お客さんを喜ばせよう」と口に出して言い、常に全力投球する料理人としての姿勢。それを間近で見ながら、自分も同じように努力し、いろんなことを学ばせてもらいました。

チャーハンは人生で最も多く作ってきた料理だけど、シンプルなぶん、難しい。

今でも心に刻まれている師匠の言葉があります。それは「味はバランス 人との調和」という言葉。それは料理人は、料理だけがうまくてもだめ。それよりも自分の人間性を慕ってくれる友人や仲間がいないと、トップにはなれない。様々な人とバランスをとってつきあいなさい、ということです。そうやって多くの人とつきあってきた長坂さんの料理は、味に突出したところがなく、ひとくち食べたらわかるほど、味のバランスがすごくいいんです。そういう料理こそ、実はいちばんおいしいんですよね。
僕が『麻布長江』で働き始めて9年目、31歳のとき、長坂さんが地元の高松に戻って新しい店を始めることになりました。それで東京のこの店をどうするか、というとき、「お前にやってほしい。無理なら、この店はつぶす」と言われ、本当にびっくりしました。僕としては35歳までに独立したいと思っていましたが、まだその時期じゃないと思っていました。他にもたくさんお弟子さんはいらっしゃるし、どうして僕に、と思って思い切って聞いてみたら、「お前の周りに素晴らしい仲間がいるのを、見てきている。人とのつながりを大事にしているお前なら、大丈夫」と言われた瞬間、「よし、やろう」と決心しました。
今回作ったチャーハンは、僕の人生の中で、いちばん数多く作っている料理だと思います。学生時代に実家の店の厨房で作り、中華街の店で見習いを始めて以来、ずっと作り、いまも夜中にお腹が減った時に自分の夜食用に作り…という具合に。何度食べてもまたすぐに食べたくなるんですよね(笑)。でもいまだに、ちょっとしたことで味が全然変わってしまうので、実はいちばん難しい中華料理だと思います。ごはんの炊き具合、卵の量、さらに具の量のバランスに鍋の温度…と、すべてにいい条件が揃わないと、なかなかおいしくはできません。シンプルな料理だからこそ、全てのバランスが整ったとき、最もおいしく作れるんです。まさに“味はバランス”の料理ですね。
今回作ったレシピは、父が作っていたチャーハンでもなく、師匠のチャーハンとも作り方が違う、僕のチャーハンです。材料を全部揃え、フライパンに卵を入れたところから仕上げまで1分半~2分ぐらいで、強火で一気に仕上げるイメージで、ぜひやってみて下さい。

チャーハン

チャーハン

コツ・ポイント

中華鍋やフライパンを十分に熱し、卵の後に、すぐご飯を投入すること。そうすると半熟状の卵によって、ご飯がコーティングされ、パラパラのチャーハンができます。

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